父について
はじめに
今日は父の話をします。
その前に、この記事に出てくる「毒親」という言葉についての説明をします。
毒親とは?
読んで字のごとく、子どもに対して「毒」になるような「親」のことです。
もっと詳しく知りたい方はウィキペディアをどうぞ
もしかして父は毒親なのか?
この漫画は3日間でガーッと描いた思い出漫画なので、雑すぎてお恥ずかしいですが、父は子どもだった私をおばあちゃんへ預け、当時お付き合いをしていた女性の家に入りびたり、家にほとんど帰ってこない人でした。
この記事でも父の事について少し触れています。
女の人の家にばかり行って、家にあまり帰って来なかった父はきっと「毒親」に当てはまってしまうのだろうが、自分の父親を「毒親」だと断言してしまうのはなんだか気が引けます。
一般的な家庭を知らない子どもの頃はこれが普通だと思っていたし、そんな事より田舎育ちの私は、草むらで捕まえたバッタの口から出る醤油のような色の謎の汁やカブトムシを捕まえる事で頭がいっぱいだったので、親が家にいない事について深くは考えていませんでした。
そもそも私が子どもの頃に「毒親」という言葉はなかったような気がします。
そして「毒親」という言葉を知ったとしても意味は分からなかっただろうし、子どもの頃の私にとって、たまに帰ってきて寸胴鍋いっぱいに美味しいカレーを作ってくれる父はカッコ良く、憧れの存在であり大好きな人でした。
思春期
ところがどっこい、思春期。
大人の事情がなんとなく分かるようになってきた年齢に差し掛かると、見事に父の事を嫌うようになっていました。
本当は父の作るカレーが大好きだった。
そして父は帰ってこなくなった。
思春期とは勝手なもので、あんな事を言っておきながら、全く家に帰って来なくなった父に益々腹を立てていました。
その時のおばあちゃんは
諦めた顔でこう言った。
そして私は
そう思った。
が、しかし、その数年後…
私が社会に出て間もなく、おばあちゃんは認知症になり、怒涛の介護生活が始まった。
そして私が26歳の時に、おばあちゃんの認知症がどんどん進んで行き、伯母の助けがあったものの、私一人ではとてもじゃないが介護できなくなってしまっていた時に父は家に帰ってきてくれるようになった。
まず父と久しぶりに会って驚いた事は、変なパンチパーマをやめていた事だった。
before
↓
after
当たり前だけど老いていた。
子どもの頃に見ていた大きな背中も、随分と小さくなったように感じた。
それから昔は田舎のヤンキーが好みそうなミチコ・ロンドンやミキハウスのパチモンみたいなロゴがバーンと目立つ派手な服を着ていた記憶があるが、ロゴが控え目なダンロップの服を着るようになっていた。
そして父は今までとは別人のように、献身的におばあちゃんの介護を手伝ってくれた。
この事がなければきっと、私は父を一生許せなかったと思います。
ずっと離れて暮らしていた父と、一緒に生活するなんて思ってもいなかったし、最初はぎこちなかったけれど、おばあちゃんの介護を通じて本当の家族の形を築けたような気がする。
父からの謝罪
そして、おばあちゃんが亡くなった日。
父がこんなに声を上げて泣いたのを見たのは初めてでした。
この時の私は、もう思春期でもなんでもない大人で、父が嫌いだという感情は微塵もなかった。
それよりも、おばあちゃんを最後まで献身的に介護してくれて感謝の気持ちでいっぱいだった。
私にとって本当の毒親とは
そんな父を「毒親」とは呼びたくない。
私にとって本当の「毒親」は母親の方だ。
今後、なにがあっても母親と会うことはないだろう。
例え向こうが会いたいと言ってきても全力で拒否します。
母親に育てられなくて良かった、おばあちゃんに育ててもらえて幸せだったと心の底から思っています。
単行本「祖母の髪を切った日」発売中です。
よろしくお願いします。
最後に
今は父と離れて暮らしているが、もし今後、なんらかの介護が必要となった時は父を最後まで看取りたい。
そう思っている。
補足
コメント欄で伯母さんは父の血縁者なので嘘を言っているのでは?という憶測があるので少し補足させてください。
確かに血縁者なのでバイアスはかかっているかもしれません、が、伯母さんは嘘をつくような人ではないと信じています。
ここには書けない(正確に言えば載せられない)証拠も存在するので嘘だとは思えません。